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プロフィール

はじめまして、オイゾウと申します。このサービスを提供している私自身についての自己紹介をさせて頂きます。
※本文中の写真はイメージです。

優秀だった中学時代と、その後の転落

1976年生まれの東京出身、現在は埼玉に在住。小学生の頃に公文に通っていたこともあり勉強は得意で、中学時代はテストで学年1位(約360人中)を何度か取ったり、その後入った私立高校の学科(理数科)では全受験者中で入試の得点が1位だったりもしました。

しかしその高校では副キャプテンを務めた部活(バスケットボール)に明け暮れる生活を送ったせいもあって成績は落ちるところまで落ち、引退時にはクラス内で最下位争いをするほどに。高校3年の秋、本人の意志ではなく周りの説得によって大学進学を目指します。

読書にハマり、商売に目覚めた大学時代

高校現役時は受験をせず、一浪期間中に再び勉強に励み、法政大学工学部に入学。しかしその大学生活中、授業に顔を出すことはほとんどありませんでした。

その理由は大きく2つあります。1つは、読書にハマったということ、もう1つは洋服の並行輸入販売を始めたということです。

読書については、とにかく様々な本を手当り次第読みました。古本屋の前を通ったときは、店先のカゴに山積みされている100円の本を手当り次第買い漁り、ときにはアルバイト中(ゲームセンターの店番)でも関係なく読みふけっていたほどです。

ゲームセンターの社長はパンチパーマにサングラスでしたが、とても優しい方でした(笑)。

読書は主にスパイ小説(笑)にハマり、その当時CIAかフランス外人部隊に入りたいと本気で思っていたのは、私の数多くある黒歴史の1つです。

初めて作ったホームページ

洋服の販売については、商材そのものに興味を持ったというよりは、単にビジネスを自分でやりたい欲求をその当時強く持っていたからです。店舗での接客販売や、カタログを郵送して注文を電話で受けるというアナログ的な通販が主流だったその時代に(ちょうどECサイトの覇者である楽天市場が日本に誕生したばかりの時期)、とりあえず私はインターネットを使って何かを売ってみたかったのです。

大学でのC言語の授業のために買ったコンパックのPCを持っていたので、それを使ってHTMLとCSS、それからロゴや写真の加工などを独学で覚え、なんとか完成させたショップのホームページでしたが、そこには肝心のものが欠けていました。それは「買い物カゴ」です。この買い物カゴをホームページに実装するにはHTMLとCSSだけでは足りず、PerlなどのCGIプログラムが必要であることに気づきました。結果的には満足に動く買い物カゴ機能を実装することができず、ホームページを見たお客様が電話かメールで注文をするという、とても本末転倒でアナログなものになってしまい、結果は惨敗に終わりました。

これまでの人生で数え切れないほどのウェブサイトを作ってきましたが、ともあれこれが私にとっての第1号でした。

創刊直後だったフリーペーパーの編集長に

このビジネス自体は上手くいかなかったものの、これがきっかけとなって知り合った方(Tさん)と一緒にクラブ関係の掲示板サイトを立ち上げ(ここでプログラムの知識が役立ちました)、2人で運用することになります。この掲示板は結局儲かりませんでしたが、一緒にやっていたTさんがムーブメントという創刊したばかりの月刊フリーペーパーに携わることになり、その関係で私も編集部に顔を出し始めます。

しかし創刊後数ヶ月で売上もほとんどなく、毎月大赤字という状態だったからなのか、気づけばそこにはその発行元の社長と私の2人しか残っておらず、話題はどのタイミングでやめるかという1点しか残されていませんでした。ところが、何となく入った大学を中退し、失敗したネット通販か、せいぜい工場の夜勤アルバイトくらいしかそれまでは社会経験がなかった私にとって、その状況はチャンス以外の何物でもなかったのです。

一気に年商1億突破。そして退職へ

素人で実績もない私は、初代編集長という体裁の良い肩書を与えられながら、実際には編集、広告営業、取次営業の全てを1人でこなし、ただひたすらがむしゃらに売上を増やすことだけを目標に突っ走りました。その頃の出来事は本当にあっという間に過ぎていったという記憶しかなく、細かいことは正直あまり覚えてないのですが、気づけば編集部には多くの才能ある仲間が集まり、彼らの力によって約1年半ほどの期間で年商1億円ベースまで急成長しました。

その会社の社長は、毎月赤字が続くこのフリーペーパーを当初こそやめたくてしょうがなかったはずですが、私に権限を与えてくれ、毎月「どうする?」(社長)、「やりましょう」(私)という問答を繰り返しながらも辛抱強く売上が伸びるのを待ち続けてくれましたし、そもそもこの仕事のおかげで私は営業や編集といった職種の基礎を身につけることができたのです。ですが、そんな恩人でもある社長と私との間にいつからかできた溝がどんどん大きくなり、私が編集長としてこの仕事をスタートしてから約2年後、遂に退職の時を迎えます。

出版社勤務と、ラスベガスの思い出

その頃の私に独立志向はなく、それよりもむしろ「編集」という仕事に強い関心を抱いていたため、英知出版という出版社に行くことを決意しました。当時、出版界でカリスマ的存在のO編集長が手がけていた411という月刊の男性ファッション誌があり、とても勢いがあって、そこで編集を学びたいと思ったのが動機です。その出版社で私は編集部の一員としての職務をメインに、ムックや書籍の企画にも携わりました。仕事そのもの、そして編集部の一員として過ごす時間は最高に楽しいものでした。

特に強烈だった経験としてラスベガスへの出張というものがあります。O編集長の同行として何度も出張に行かせてもらったこのときの素晴らしい体験の数々が、私の信念の中に「多様性」を加えなかったとしたら、確実に今私が取り組んでいる事業(慈善活動を含む)は存在してないでしょう。

クリエイティブへの憧憬、そして無職へ

出版社に入ったばかりの頃の自身を振り返ると、恥ずかしい話ではありますが、正直に言って自信過剰な状態でした。フリーペーパーが商業的にある程度の成功を収めたことで、実際にいくつもの企業からヘッドハンティングされるようになっていたのです。ところが、この新しく始めた仕事(雑誌編集)をするうちに、編集部の仲間をはじめとする周りの人たちのレベルの高さにショックを受け、徐々に自信を喪失していきます。

彼らと私との間には、目には見えないものの確実に存在する「越えられない壁」がそびえていました。私は、そんな彼らとの違いを探すことに躍起になり、その結果「クリエイティビティ(創造力)」が私には決定的に欠けていることに気づいたのです。

それと同時に、この「クリエイティビティ」というものは、ちょっとがんばって徹夜して詰め込んだ知識程度ではまるで手が届かない、延々と続く真っ暗なトンネルのような、そんな存在に感じられました。まるで砂漠の中でオアシスを探し求めるような、他は何もいらないからとにかくクリエイティブな人間になりたいという欲が私を支配するようになり、その経験はやがて「自分がどう生きるべきか」ということを真剣に考えるきっかけにつながっていきます。

私はあらゆるものがいつでも揃っているような、そんな不自由のない状況から抜け出し、何か他の全く違う別の道を考えるようになりましたが、それはその世界から逃げたいというよりは、むしろ最初の一歩から始めたいというか、「丁稚奉公のような立場こそが自分には相応しい」という考えが根底にはありました。結果的には、自分の意志というよりも、その出版社の経営陣によるゴタゴタが倒産を招き、私は強制的に職を失ったのですが。

ボロボロの会社に飛び込んだ結果・・・

失職中の私にいくつか選択肢があった中で、次に選んだのはショグネイトというインディーズレーベルでした。インディーズレーベルというのは、簡単に言えば小規模のレコード会社で、音楽を売るビジネスです。私自身はフリーペーパーや出版社時代に培った音楽業界との太いパイプがありましたが、そこの会社の社長とは付き合いも古く、内情を良くも悪くも詳しく知っていました。それは「まるでレーベルの(というか会社の)体をなしてない」というものです。

社長の人間味溢れる人柄に共感する一方、あまりにも無茶などんぶり勘定、実務がぐちゃぐちゃで学生サークルより低レベルと言わざるを得ない運営実態と、放っておけばすぐにでも潰れるような状況だったにもかかわらず、私としてはそんな環境に飛び込むことに心を躍らせ「この最悪の状況でゼロから自身のクリエイティビティを磨きたい」という思いに駆られていました。その会社はCDを作るメーカーつまりレコード会社としての事業とともに、歌手のマネジメント業務も行っており、私はA&Rという、レーベルのディレクター的な職務をメインにしつつ、両事業を統括するポジションに就きます。

結果は惨敗でした。約2年ほどの期間、やることなすこと全てが上手く行かず、自身の非力さを痛感したものです。それで済めば良かったのですが、雇われの身でありながら会社の債務の一部を背負う羽目になってしまい、しかも勤務していた期間のほぼ半分は無給だったため、最後の約1年の間に自身の貯金を全て使い果たすどころか、さらに人生初の借金(厳密には会社の債務の建て替え)を抱えるほどにまで落ちていきました。

そこから約1年ほど、生涯で最悪のどん底生活を送ります。

困窮生活と夜勤の警備員アルバイト

30代前半にして電気代が払えなくなるほど生活は困窮し、一方で返済の催促というプレッシャーが常にのしかかる状況の中で、行くあてを完全に失った私は、コンビニで買ったアルバイト情報誌に載っていた警備員の夜勤アルバイトを始めます。ほぼ毎日出勤し、帰宅した午前中はネット通販で小遣い稼ぎをしつつ、約半年ほどで返済の目処が立つところまで挽回しました。

この時期はかなり精神的に追い詰められていましたが、毎日の生活に慣れてくると、だんだん心に余裕が生まれてきます。

「ユダヤ人大富豪の教え」で目覚める

私がこのオイゾウというサービスを立ち上げたのは、まさにそんなタイミングでした。そのきっかけとして、警備員のアルバイト仲間である1人の先輩の存在がありました。その方は30歳近く年上のベテランアルバイト警備員Mさんです。

仮眠する施設でよく一緒になる機会があり、私が興味を持っているビジネスについていろいろ相談すると的確な意見をもらえたりしたこともあって、仲良くさせてもらっていました。というのも、Mさんは過去に会社経営者として活躍されていたのですが、それもバブル崩壊によって全てを失ったという壮絶な経験の持ち主だったのです。

ちょうど背負っていた返済もほとんどなくなってきたところで、私は警備員を続ける理由がすでになく、さて次はどうしようかとぼんやり考えていた矢先のことです。Mさんが「読んでみな」と、1冊の本を貸してくれました。それは「ユダヤ人大富豪の教え」でした。ご存じの方も多いかと思いますが、いわゆる自己啓発書です。私は借りたその日に読み終え、次の日には起業する決意を固めていました。

先生、ホームページ制作がしたいです

そしてそこから約1ヶ月間、どんなサービスもしくは商品で起業をするかということを毎日自分に問いかけ、ホームページを制作するサービスを、まずは個人事業主として始めることに決めたのです。「これをやっているだけで、他のことを忘れてしまうほど楽しくてしょうがない」と思えるものは何だろう? そう自問自答していたら、それまですっかり忘れていた過去の失敗談〜大学生時代に必死にホームページを作っていたときの記憶〜が、強烈に蘇ったのです。実はその後のフリーペーパー、雑誌編集者、音楽レーベルA&Rという社会人生活を送る過程においても、公式的にも非公式的にも、様々なホームページを作る機会に恵まれていたということもあります。

出だしでつまづきつつも法人登記

もちろん、すぐには上手くいきませんでした。何しろ、とりあえずこのホームページ制作業に本腰を入れようと警備員をやめたのはいいですが、売上がすぐに上がるわけもなく、約半年後には再び金銭的な余裕がなくなり、今度はコンビニの夜勤アルバイトを始めたほどですから。

ところがこの新しいアルバイトを始めた直後くらいから、比較的大きめの仕事が立て続けに入ります(ちなみにこのときに出会ったクライアントさん方とは今もずっとお付き合いさせて頂いております)。コンビニの夜勤仲間やフランチャイズオーナーと仲良くなった矢先のことだったためになかなか辞められず、しばらくはアルバイトを続けながらひたすらホームページを作る生活が始まります。

その後、税務上のメリットを考えて、オイゾウと同時進行で行っていたフラワー事業もまとめて2013年に法人登記し、現在に至ります。

これからもずっと社会貢献

オイゾウのサービスの主体はホームページ制作業から徐々にウェブコンサルティング業にシフトしつつ、動画コンテンツ制作や音楽CD制作などを加えていき、2020年にはシャツも作り始めました。

こうして振り返ってみると、私が今も事業を無事に続けていくことができるのは、ひとえに今までに出会った皆様によるものであると確信することができます。社会人、アルバイト、独立後というそれぞれの時間軸の中で、たくさんの素晴らしい方々と一緒に仕事をさせて頂き、時には厳しいお叱りを受け、時には私の未熟さによってたくさんの迷惑をかけましたが、そんな1つ1つのつながりが全て、私が事業を行う上での強固な支えになっています。

今までがそうであったように、これからも私は多くの失敗を繰り返すことになるでしょうが、それでも今までに受けてきた社会からの恩恵に少しでも報いるためにも、企業活動や慈善活動を通じて社会貢献してまいりたいと思っている次第です。

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